札幌第一高校野球部ユニフォームのルーツ~元札幌第一高校野球部監督宮崎一夫さんのお話より~
札幌第一高校野球部ユニフォームのルーツを探してきました
札幌第一高校野球部ユニフォームのルーツを探してきました。
~元札幌第一高校野球部監督宮崎一夫さんのお話より~
来月の選抜高校野球大会に北海道代表として出場される札幌第一高校野球部。
甲子園大会への出場は夏の選手権が3回、今回の選抜が初出場で計4回目となります。
北海道では野球強豪校のひとつとしておなじみの同校ですが、札幌第一高校野球部の選手たちが初めて甲子園のグラウンドに登場したのは、後に日本ハムファイターズへ入団された渡部龍一捕手が2年生の時の2002年夏の選手権大会、21世紀に入ってからのことです。
そんな札幌第一高校野球部が北海道の高校野球界で頭角を現しはじめたのは昭和60年(1985年)。
同校野球部監督に宮崎一夫氏が就任して2年目の夏に選手権大会の札幌支部代表として全道大会へ出場します。
以後、宮崎監督就任期間11年間のうち「夏の全道大会」(正式名称:全国高等学校野球選手権大会南北海道大会)へ出場すること計8回。
同校野球部の歴史では過去に1度だけ全道大会に出場したことがあるという野球部の実力から、札幌支部代表としてほぼ毎年「夏の全道大会」に出場するチームにまで飛躍、同校を北海道地区の強豪校へと躍進させました。
特に勢いのあった時期、今をさかのぼること26年前の1990年、1991年。
現在母校の札幌第一高校野球部監督をお勤めの菊池雄人先生がエースナンバー「1」を背負い活躍され、3年生時の春季全道大会で札幌第一高校は優勝しました。
春の勢いそのままに、夏の選手権大会予選も順調に勝ち進み札幌支部代表として全道大会へ出場。
優勝候補の一角を担い順調に決勝戦まで進出しました。
しかし、決勝戦で同じく優勝候補の一角であった函館有斗高校に惜しくも敗退。
あと一歩のところで届かなかった南北海道代表校のキップでした。
ところが翌年夏、(後にヤクルトスワローズで活躍)プロ注目のスラッガー高梨利洋選手を擁し、夏の全道大会予選を順調に勝ち進み札幌支部代表として再び選手権決勝の舞台へ。
しかし、北照高校に惜しくも敗れまたも甲子園の道のりはあと一歩のところで潰えたのでした。
それから4年後の1995年に高梨英雄氏(現TTBC監督)へと同校の甲子園への道を託すこととなります。
在任時に甲子園出場を果たすことはかないませんでしたが、宮崎監督在任期間11年で夏の選手権大会だけとっても全道大会出場が8回うち準優勝2回。
宮崎一夫さんの功績が現在の札幌第一高校野球部活躍の礎を築いたといっても過言ではないでしょう。
1995年高梨英雄監督就任と同時に同校のユニフォームのデザインも変更されます。
ユニフォームカラ―をこれまでの紺から緑へ変更、胸のロゴも大きく「DAIICHI」のマークへ変更となりました。
しかし、2000年に当時、石狩南高校で教鞭をとられていた菊池雄人先生が同高校を退職し、母校の札幌第一高校に赴任されました。
そして、札幌第一高校野球部監督に就任された際にかつて自身が現役時代にそでを通したユニフォームデザイン(現在のユニフォーム)へと再び変更されました。
さて、ここからが札幌第一高校野球部ユニフォームのルーツを探した本題です。
札幌第一高校野球部のユニフォームデザインは、宮崎一夫監督が同校監督に就任される前身の社会人野球チーム、札幌トヨペットで監督を務められていた際に使用されていたデザインが基になっております。
昭和52年(1977年)から昭和59年(1984年)までの7年間、札幌トヨペットを率いていた宮崎氏ですが、同チーム廃部に伴い昭和59年(1984年)3月に退職され、同年4月より札幌第一高校野球部監督に就任。
札幌トヨペット監督在任期間の7年間の中でも昭和55年(1980年)の活躍がすばらしいものでした。
ちょうどそのころ、社会人野球大会での使用バットが「木製バット」から「金属バット」へ移行された時で、各チームがそれまでの野球スタイルの変遷を迫られている時期でもありました。
いち早く金属バットでの野球に対応したスタイルを確立できた札幌トヨペットは、当時北海道の5強とよばれた、大昭和製紙白老・たくぎん・新日鉄室蘭・王子製紙苫小牧・電電北海道を退け、都市対抗野球大会へ札幌市代表として出場、しかも都市対抗野球大会初出場で準優勝の快挙を達成しました。
現在の札幌第一高校のユニフォームデザインは、宮崎さんがその当時札幌トヨペットが使用していたユニフォームのデザインです。
札幌第一高校野球部さんが選抜大会出場の報を受けた数日後、宮崎さんに直接ユニフォームの由来を訪ねにお伺いしました。
社会人野球の監督をされていた話や第一高校監督時代のお話しなどいろんなお話しを頂いた中に下記のような話がありました。
札幌第一高校在任時、現在同校監督である菊池監督と一緒に札幌第一高校野球部の指導をしたいと思っていたそうです。
実際菊池先生は同高校を卒業後、北海道教育大学へ進学され教員の道を進んでいました。
宮崎さんは自分の教え子と共に野球部を強くしたいという夢があったそうですが、お二人が同じグラウンドに立って指導されるという夢は、事情によりそれをかなえることはできませんでした。
当時のデザインのユニフォームに戻し、現在も袖を通し指導を続けられている菊池監督の胸中には自分の恩師のかなえられなかった「一緒に」という夢をユニフォームになぞらえているのかも知れませんね。
(写真左上は若き日の宮崎監督と和久井アナウンサー)
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